中央電気デジカタ
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皇居にまつわあたる外郭も整備を進めて行きました。家康は1605年(慶長10年)には将軍職を退きますが、江戸城の拡張・整備工事は2代将軍秀忠、そして3代将軍家光の代へと受け継がれて行きます。一応の完成(その後も修築などの工事は続きました)を見たのは、ようやく1636年(寛永13年)のこと。城郭の周囲は約16㎞、現在の中央区と千代田区全体をほぼすっぽり覆ってしまうほどの広さに及びました。徳川家は実に3代に渡り、50年近くの歳月をかけてこの壮大な築城工事を成し遂げたのです。しかし、江戸城がその完全な姿を留めたのはほんのごく僅かな期間でした。大きな火事が相次いで起こり、本丸、二の丸ほか城の主要施設の多くは、幾度も焼失・再建を繰り返すことになったのです。家光の時「参考文献」江戸城その歴史と構造 (小林和博 著 名著出版刊)江戸城を歩く(黒田涼 著 祥伝社刊)江戸城その全容と歴史(西ヶ谷恭弘 著 東京堂出版)宮内庁、国民公園協会、環境省皇居外苑管理事務所パンフレット宮内庁HP http://www.kunaicho.go.jp/about/shisetsu/kokyo/kokyo.html環境省 皇居外苑管理事務所HP http://www.env.go.jp/garden/kokyogaien/代に完成した日本史上最大の天守閣も、1657年(明暦3年)に「振袖火事」と呼ばれる大火で燃え落ちてしまい、その後再建されることはありませんでした。1800年代に入ると、幕末に向け時代は揺れ動き、江戸城の歴史も大きな転換期を迎えることになります。1867年(慶応3年)、大政奉還により徳川幕府は朝廷に政権を移譲。約260年続いた江戸時代は、ここに幕を閉じました。1868年(明治元年)、「江戸」の名は「東京」に改称され、江戸城の名も東京城に改められて、明治天皇が西の丸御殿に入られました。その翌年(明治2年)、西の丸御殿を皇居と定め、東京城は皇城と称されました。(1888年(明治21年)から1947年(昭和22年)までの間は、「宮城」と称されていました)。その後、明治時代には新政府による城郭の破却が進められ、大正から昭和にかけては、関東大震災や太平洋戦争での被災と再建といった様々な歴史を経て、いまの皇居と外苑のかたちへと整備がなされてきました。現在の皇居は、天皇皇后両陛下のお住まいである御所と諸行事を行う宮殿、宮内庁関係の庁舎などがある「吹上御苑」と、その東側に位置する庭園「皇居東御苑」からなっています。そして皇居の周りには、皇居外苑地区、北の丸地区及び12の濠からなる「皇居外苑」が広がり、都心最大の緑地公園を形成しています。皇居外苑及び皇居東御苑の一部は一般にも広く開放されています。また、事前の申し込みをすれば皇居内も参観することができます。「江戸城」から「皇居」へ。あらたな時代の到来16 皇居外苑のあかり御江戸大絵図(天保14年/1843年)より

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