中央電気デジカタ
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るヒストリアHistory of the Imperial Palace皇居といえば、昔の江戸城。江戸城といえば、まず連想されるのは徳川幕府でしょう。実際、1590年(天正18年)に家康が入城して以来、徳川家はここに50年近くもの歳月をかけて巨大な城郭を築き上げ、幕府の拠点としたのです。とはいえ、徳川家が行ったのは城の「再構築」と「拡張」の工事。江戸城そのものは、家康が駿府から関東に移るより130年以上も前から存在していたのです。ではこの地に最初にお城を建てたのは、いったいどんな人物だったのでしょう。そして、江戸城の「江戸」の名は、もともと何に由来しているのでしょうか。昔と現在の地図を見比べながら歴史を追っていくと、知っているようで知らなかった興味深い城の生い立ちと変遷が見えてきます。古地図を見ると、その昔、いまの東京都千代田区あたりはすぐ目の前が海であったことがわかります。現在、皇居のある場所は、「日比谷入江」と呼ばれる入江の奥に位置していました。「江戸」という地名はこの『入江』に由来している、という説が有力とされています。『江』は入江、『戸』は入江の入り口すなわち門戸を意味することから、「江戸」と呼ばれるようになった、というものです。12世紀の初めに、この地名をとって江戸氏を名乗る豪族が登場、後に江戸城の本丸が置かれることとなる台地の辺りに居館を構えたとされています。江戸氏は海運業などで富を蓄え「八カ国の大福長者」と呼ばれるほど繁栄を極めますが、その力もやがて衰退、14世紀には江戸を離れます。時は移り1457年(長禄元年)、今度はこの地に、扇谷上杉氏に仕える関東の武将、太田道灌が城を築きました。これが「江戸城」と呼ばれる城の始まりです。この時の城の構造や正確な位置は不明な点が多いのですが、おおよそ江戸氏の館があった場所に建てられたものと推測されています。道灌はそれから1486年(文明18年)に暗殺されるまでの間、江戸城を拠点のひとつとして転戦を重ね、関東一円で大きな勢力を誇りました。道灌の没後、江戸城の城主は上杉氏、北条氏へと移り変わり、1590年(天正18年)の徳川家康入城へと至ります。豊臣秀吉の命によって駿府から江戸に移り江戸城を居城とした家康は、城周りの交通網や上水道といったインフラを整える一方で、太田道灌が作った本丸の空掘を埋め、周囲にあった寺や民家を移転させるなどして、城の用地を再整備し広げて行きました。1593年(文禄2年)頃には西の丸の築造を終え、1603年(慶長8年)に征夷大将軍に就任してからは、全国各地の大名を総動員させての「天下普請」と呼ばれる大工事を始めます。神田山を削り、日比谷入江を埋め立て、本丸、二の丸、三の丸を築き、現在の外堀に江戸城550余年の歴史をひも解く江戸城550余年の歴史をひも解く江戸城はこうして生まれた徳川家3代、50年に及ぶ大工事皇居外苑のあかり 15

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